村橋歯科診療所
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村橋歯科診療所

〒850−0015
長崎県長崎市桜馬場
1−2−12

TEL: 095-822-6348
FAX: 095-822-6346
E-Mail: info@murahashi.com
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スタッフプロフィール 村橋歯科ストーリー 村橋歯科スタッフの心得
村橋歯科診療所では、私たちと一緒に働いていただける歯科衛生士などのスタッフを募集しています。

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クリニック概要
院長村橋秀夫(むらぺん) 院長 村橋秀夫(むらぺん)

3代目院長 村橋秀夫

長崎県立長崎東高校
神奈川歯科大学大学院卒 放射線学専攻

歯学博士 日本歯科放射線学会認定医
(全国に270人、開業医では60人)
日本歯科放射線学会会員 NAOSメンバー
元神奈川歯科大学 非常勤講師

長崎新聞社健康欄「お口の相談室」の回答者を9年務める。
長崎県歯科医師会 口腔保健センターの医局員として障害を持つ方の歯科治療に6年間携わる。
長崎市民健康大学の講師として講演。

元長崎青年会議所会員
ボランティア、街づくり活動等にも参加。
歯科関係以外の他業種にも知人が多い。
弟が佐世保の広田で循環器内科を開業しています。
よろしくお願いします。

年間目標
  人の長所を見る
セルフトーク
  できるできる
患者様へのメッセージ
全身の健康はお口の健康からはじまります。



副院長村橋貴子(mura) 副院長 村橋貴子(mura )

副院長 村橋貴子

神奈川歯科大学卒
神奈川歯科大学放射線学教室助手
介護支援専門員(ケアマネージャー)
日本抗加齢医学会会員


年間目標
  夢を予定に組み込む
セルフトーク
  私はかならずできる。
私は自分をあきらめない。

患者様へのメッセージ
あなたの笑顔を世界トップレベルの美しさに!
ベストを尽くします♪



衛生士 井上


衛生士 井上

年間目標
  族旅行に行くぞ!
セルフトーク
  今の自分に明日勝つ

患者様へのメッセージ
ご一緒に8020をめざしましょう!!



衛生士 峰



衛生士 峰

年間目標
  料理の上達
セルフトーク
  毎日の努力と積み重ね

患者様へのメッセージ
一緒にお口の中をきれいにしていきましょう



衛生士 谷口


衛生士 谷口

年間目標
  パソコン人並みマスター
セルフトーク
  診察室を1Fから2F,2Fから1Fへと
毎日ホップ ステップ ジャンピングー

患者様へのメッセージ
虫歯予防から介護相談までと、
幅広くサポートしてまいります



スマイルクリエイター 渕


スマイルクリエイター 渕

年間目標
  月に1冊本を読みます
セルフトーク
  ありがとう

患者様へのメッセージ
いつも笑顔でがんばりますので、
宜しくお願いします!!



スマイルクリエイター 徳永


スマイルクリエイター 徳永

年間目標
  常に身の回りの整理整頓
セルフトーク
  いつも笑顔で

患者様へのメッセージ
分からないことは何でも聞いてください。




村橋歯科診療所ストーリー


院長 村橋秀夫(むらぺん)

幼少から高校時代まで


昭和34年3月22日、祖父から続く歯科医院の長男としておぎゃーと誕生。
男二人兄弟で弟は長崎県佐世保市広田町で循環器内科を開設しています。
幼稚園は大浦の信愛幼稚園?途中から桜ヶ丘幼稚園に通園しました。
一番の思い出は卒園式の時の出来事です。
おそらく「はしか」で具合がわるかったのでしょう。卒園証書をもらう時、嘔吐してみかんがたくさん出てきたことです。これ以上の思い出はありません。

小学校は長崎市立伊良林小学校。当時は長崎県下No.1のマンモス小学校でした。校歌の中島川の流れつつを中島川のどぶ川にと替え歌にして歌っていました。(今はずいぶんきれいになっています)
校区内の町内対抗ソフトボール大会にファーストで出場して、3位になったことを覚えています。

当時診療所は父と祖父の二人で患者さんを診ていたのですが、今と違い予約制ではなく順番制でした。朝早くから患者さんが並びます。そして歯科医院が少ないこともあり患者さんが多く、夜は夕食を食べた後も診療をしていました。
その後深夜まで父と母は技工をする毎日でした。歯医者さんは毎日毎日忙しくて大変だなと子ども心に思っていました。

平日は父と遊んでもらうことなどできませんでしたが、休日にはよくドライブに連れて行ってもらいました。
そのせいか、地図を見るのが大好きで旅行のプランニングを立てて遊ぶちょっとオタクな子どもでした。

中学校は無試験で長崎市立桜馬場中学校に入学。何となく軟式テニス部に入部。下手くそでした。
ところが軟式テニスが将来・・・・・(後を読んでね)
勉強はというと自慢じゃないけどほとんどしたことがありませんでした。勉強をしないという習慣が中学生時代に確立され、高校まで引きずることになるのです。

高校は当時学区制でしたので、長崎県立長崎東高校に素晴らしい成績で入学。なわけないか。
中学時代から愛読書であった「サイクルスポーツ」。高校になると自転車で旅行がしたいー!!と強く思うようになりました。そう思うと後先考えずに行動に移したくなる性格。

1年生時 島原半島1周1日旅行   天草へ1日旅行
2年生時 唐津、松浦2泊3日旅行  阿蘇1泊2日旅行
3年生時 夏休み雲仙勉強合宿が終了した後 鹿児島へ4泊5日の大旅行。

高校3年生の夏休みに4泊5日の自転車旅行。この時点で大学入試を諦めていたとしか考えられません。
大学入試が終わってから大宰府天満宮へ2泊3日の自転車旅行。入試が終わってからの大宰府天満宮詣でにご利益などあるわけもありません。
当時は歯学部の人気は高く、国立、私立とも10倍近い競争率でしたので、勉強不足もあり、あえなく撃沈。

高校4年生、いや予備校に進学しました。
1年間の予備校生活を経て、戦前は女子歯科医学専門学校であった神奈川歯科大学に入学することになりました。


大学時代


大学は神奈川県横須賀市にある神奈川歯科大学に入学しました。
横須賀はアメリカの海軍基地がある軍港で佐世保に似た街です。
大学は朝9時から夕方の4時20分まで毎日授業と実習があり、特に実習は欠席すると留年のおそれがあるため、めったなことでは休むことはできませんでした。
大学1,2年は教養課程で、高校の授業の延長と歯科の基礎的な授業。3年からは専門課程に進み、5年の後半から1年間は大学病院に登院し、実際の臨床を学びます。
大学という名前はついていますが、歯科専門学校といったところです。
大学生になると、女子大学との合コンが毎週のようにあるのではと、密かに期待していたのですが、6年間で参加した合コンはたったの1回でした。
横須賀には神奈川歯科大学と防衛大学しかないのです。まさか防衛大学と合コンするわけにもいかず・・・。

クラブは大学1年の5月の連休に行った春スキーが縁でスキー部に入部しましたというか、入部させられました。5月にスキー?九州出身者には全く考えられません。夏は山形の月山で夏スキー合宿。理解不能です。
当時は今のようにスノボーなどなく、ユーミンの歌にもあるようにスキー天国でした。
あまり合宿には参加しなかったのですが、なんとか転ばずに滑れるようになりました。
夏休みには友人と旅行にも出かけ、大学2年の時には北海道を旅しました。
当時はあの松山千春が絶大な人気を誇っていて、車のカーステレオも松山千春オンパレードでした。
学生ですから経済的には余裕がないので、ユースホステルや映画館で夜を明かしたことも楽しい思い出です。

災害は忘れた時にやってきます。それは大学5年の時です。
元々釣りが好きで、釣り部の合宿に参加して三宅島に行った時のことです。
夜のニュースで長崎は大雨と報じていました。実家に電話したところプープープーと話中のコール。なんだ話中かと安心して、翌朝は早朝から釣りに興じていました。釣りを終えて、宿に戻り朝のニュースを見ると、なんと長崎が未憎悪の大雨。長崎大水害でした。急ぎ三宅島を離れ長崎に戻りました。東京から直接長崎に戻ったのか、福岡を経由して長崎に戻ったのか今でも思い出すことができません。

実家は裏の崖が崩れて半壊状態でした。両親は診療所から実家に帰ろうとしたのですが、あまりの雨のひどさで車が渋滞していたので、診療所に戻ったそうです。おかげで怪我もなく無事でした。
猛暑の中、水分を含んで重たい土砂を家族、親類と運び出しました。畳がものすごく重かったことを今でも覚えています。診療所の患者さんも多数犠牲となりました。本当に悲しい出来事でした。

大学の登院も何とか無事終了し、ついに卒業試験です。
私は肉体的には何の問題もなく健康ですが、精神的にちょっとナイーブで?・・・、神経性胃炎に罹ってしまいました。勉強を始めると胃がキリキリと刺すように痛いのです。試験中ですから勉強しないといけないのに勉強を始めると胃が痛む。これには本当に参りました。食事もろくにとれず、ヨード卵光を飲む毎日でした。
当然試験結果は悲惨なものでしたが、友人たちの助けもあり何とか卒業試験をパスすることができました。

これで歯科医師になれるわけではありません。次は国家試験に向けての勉強です。
午前中は大学で講義、午後は図書館で勉強、夜は時々社会勉強と結構勉強しました。
国家試験も自己採点で多分合格。不思議なもので胃痛も知らない間に全快していました。
さて、大学卒業後の進路についても少々悩みました。選択肢は次の3つです。

1. 一般開業医に勤める
2. 大学に助手として勤める
3. 大学院に進学する(4年間)

当初、歯周病科の助手を考えていたのですが、定員に空きがなく断念。所属していたクラブの顧問教授に「あんた、放射腺科へこんか」と声をかけていただきました。1学生が教授の誘いを断ることなどできるはずもなく、卒業後は大学院に進学することになりました。勿論、一応入学試験はありました。


大学院時代


一言でいうと今までで最も充実した生活を送ることができました。歯科医師の資格をもってはいるが学生、ちょっとびみょー。

放射腺科というとレントゲン撮影だけをするのが仕事と思っていましたが、全く違っていました。
朝から入院患者の放射線治療、紹介患者のRI(ラジオアイソトープ)検査、診断、教授の授業の手伝い、大学病院の登院生の教育、先輩の実験の手伝いなどなど多忙な毎日でした。

私の恩師である東教授は歯科医師ではなく甲状腺専門の医師でしたので、紹介患者の中には甲状腺疾患の患者さんも多数いました。甲状腺に対する知識のない私に毎日熱心に甲状腺について説明していただきました。
医師として患者さんを診るスタイルは、現在の村橋歯科診療所のバックボーンの一つです。

教授が新しく画像診断の本を執筆するというので、大学院生がレントゲンの説明をしたイラストを描くことになりました。私の担当は上顎洞、唾液腺でした。当然担当の疾患については熟知する必要があったのでこれまた勉強することになりました。2年ほど校正を繰り返し、その本は日の目を見ることになりました。
出来上がった画像診断アトラスは評判も上々で、ドイツ語にも翻訳されたと聞いています。

さて、自分の研究はというと、RIの一つであるGa-67の腫瘍細胞への取り込み機序という、生化学的な細胞レベルの研究をテーマとして与えられていました。医局の先輩、後輩の協力もあり無事論文として仕上げることができました。

忙しい大学院生活の中で、教授が硬式テニスが好きでしたので、土曜日の午後はテニス大会になることもありました。中学の時の軟式テニスの経験が大いに役に立ちました。

私が大学3年の時に、医局に女性歯科医師が助手として入局してきました。放射線科は元々小さな医局でちょっと(いや、大いに)変わった人が多いという評判でしたので、物好きな女もいるものだと思っていました。男の中の紅一点ですから目立ちます。

偶然、帰宅方向が私と同じでしたので時々一緒に帰るようになりました。
偶然、帰宅方向が私と同じでしたので時々一緒に夕食を食べるようになりました。
偶然、帰宅方向が私と同じでしたので時々ドライブするようになりました。
偶然、帰宅方向が私と同じでしたのでいつも一緒にいるようになりました。
気がつけば女房にする約束をさせられました。(大笑い)

大学院卒業後、結婚し長崎の父の診療所に戻ることになりました。
めでたし、めでたし。
                                    

To Be Continued





副院長 村橋貴子(mura)

幼少から高校時代まで


青森県、太宰の故郷 津軽に生まれる。
流れる雲、風でゆれる山の木を見るのが好きな感受性の強い子供でした。
夢見がちでぼんやりした自分を変えたいと思っていました。
中学生になると、ぼんやりさんは卒業して、ながら族に豹変。
雑誌をひろげラジオを聴き、編み物(かなり得意。手元を見ないで凄いスピードで
編めます。)をするのが好きでした。

いなかでは名門、の五所川原高校に入学、実用英語部の部長に。
オリベッティのタイプライターに夢中で、早打ちにあこがれてました。

大学は6年間軟式テニス部に所属。一球入魂!
最後まであきらめずにボールを追うこと。仲間を信じること。を学びました。

そして、運命の放射線科入局。
そこに、真面目で研究熱心、テニスもうまく、笑顔の爽やかな一人の大学院生が・・・
欠点は胃腸が弱いことと、実家が遠いことだけでした。(ちょっと、ほめすぎか?)

村橋先輩は人懐こい笑顔で、いとも簡単に青森の両親をとろけさせ、
私は雪の無い長崎にやってくることになったのでした。・・つづく。







村橋歯科診療所をリニューアル


1988年7月7日、二人は寝台特急さくら号で長崎に戻ってきました。二人の前途を祝すように、その日の長崎の空は梅雨明けで真っ青に晴れ渡っていました。
数日後より私は父の診療所を手伝うことになるのですが、私は頭の中でこう思い描いていたのです。

私 
「こんにちは。(笑顔で白い歯がこぼれるように) 今日はどうなさいましたか?」
患者さん
「今度帰ってこられた息子さんですね。(あるいは若先生ですね)宜しくお願いします」

準備万端、用意周到、
シミュレーションOK!
さて、現実はと言うと


「こんにちは。(笑顔で白い歯がこぼれるように) 今日はどうなさいましたか?」
患者さん
びっくりしたように「あんた だいね」(あなた だれ?)

がらがらと音をたててシナリオは崩れていきました。その後どうなったかは想像にお任せします。
父に診てもらっていた患者さんはやはり父に診て欲しいらしく、若い私に診て欲しいという患者さんはなかなかいません。さてどうしよう・・・・・・。
父と同じことをやっても歯科医師としての経験が違うので相手になりません。

そこで父があまりしないことをやってみるようにしました。
まず、患者さんを待たせない。(今までは予約制でありながら患者さんをお待たせしていました。)
次に説明は専門用語を使わずにたくさんする(放射腺を専門としていたのでレントゲンの説明には自信あり)
そして、痛くしない。(歯の治療は痛くて当たり前と思われています)
その上、小児歯科を標榜しました(大学院時代、小児歯科でアルバイトしていました)
これらのことを地道に実行したところ少しづつではありますが患者さんが増えてきました。
そして平成4年の1月4日、父から代替わりをして私が村橋歯科診療所の院長となりました。

歯科医師会にも入会し、広報委員会、総務委員会、障害のある人を治療するセンター医局などのお手伝いをして、いろいろな大学の先輩方と知り合うことができ、県下各地の先生方と懇意にさせていただきました。

歯科関係ばかりではなく、長崎の街をもっとよくしようとする仲間の集まりである長崎青年会議所にも6年間籍をおきました。おかげで歯科関係以外の友人もでき、今でも何かと相談にのって貰っています。

光陰矢のごとし。あっという間に時は流れ、父が引退したのを機に、平成19年、診療所をリニューアルしました。
これからの歯科医院は歯を削って詰める、金属を被せる治療をする、歯を抜くところではなく、歯を削らずにすむように、抜かずにすむように患者さんと共に協力してお口の健康を守るところであるべきだと考えています。
患者さん御自身が健康になりたいと思う気持ちを村橋歯科診療所のスタッフ一同一生懸命サポートいたします。どうぞ宜しくお願い致します。





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